カテゴリ:頬( 8 )
【頬】⑧
母と志穂おばさんはこれでもかというくらいに仲良しで、
それぞれに家族を持ち離れて暮らす今でも、
必ず週に3度は連絡を取り合っている。

志穂おばさんの旦那さん、つまりはるちゃんのお父さんは、
はるちゃんが3つの時に亡くなった。
はるちゃんの声が出ないのは
もしかしたらそのことに起因しているのかもしれないと
先生には言われたそうだ。
声が出なくなったのは確かにお父さんが亡くなってからだし、
そう考えられなくもないわけだけれど、
でも二十歳になって立派に生きているはるちゃんに
一向に声が戻らないというのはおかしなことだ。
はるちゃん自身お父さんがいないことを
もちろんずっと前から受け入れてきたはずだし、
それができないような少年でもなかったはずだ。

なぜなら私にとってみれば、
はるちゃんはいつだって強くて誠実で、
紳士的な男の人なのだ。
きっと昔から、強く誠実に、ものごとを見つめてきたに違いない。
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by lilmickey | 2008-06-04 00:05 |
【頬】⑦
ゆきは優しい子だね、
というのははるちゃんの口癖で
私が何かしてあげると必ずそれを言う
たとえば今みたいに、ココアを作ってあげるとか
はるちゃんのシャツにアイロンをかけてあげるとか、
私にできるほんの些細なことにも、
はるちゃんは感謝を忘れない。


ゆき、というのが私の名前で
漢字一文字で「雪」と書く。
それは私が12月生まれだということに深く関連している。
はるちゃんは晴渡と書いてはるとだ。
母と志穂おばさんは昔から
漢字を見て誰にでもすぐに
イメージが浮かぶ名前をつけたかったそうだ
雪ならば冬にちらちら舞い降りる雪を、
晴渡ならば真っ青に晴れ渡る空を。
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by lilmickey | 2008-06-03 23:50 |
【頬】⑥
階下に降りてみると
やはりはるちゃんがルルとボール遊びをしていた
母は出かけているようだ
はるちゃんにおはよう、と言うと
はるちゃんはにこっと笑って答えた


「はるちゃん日曜なのに今日はアルバイトないの?」
はるちゃんは首を振る
「珍しいね」
ミルクを冷蔵庫から取り出しながら言うと、
はるちゃんは首をすくめてそうかな?と口を動かした
はるちゃんはいつも日曜日になるとアルバイトに出かける
講演会に通訳に行くのだ
演説を聞いて、耳が聞こえない人のために手話をする
日曜日だけでなく授業の早く終わる日などにもやっているみたいだ
始めはボランティアでやっていたが
最近はお金がもらえるらしい
「ほんの少しだけどね」と前にはるちゃんは言っていた


「ココア飲むでしょ?」
鍋でミルクを温めながら
ルルのあとを追いかけ回していたはるちゃんに声をかける
ルルは疲れてきたようでいい加減迷惑そうにしている
はるちゃんは頷くとマグカップを二つ出してくれた


ゆき、
とはるちゃんが言う
声なき声で、
ゆきは優しい子だね
と。
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by lilmickey | 2007-11-24 11:21 |
【頬】⑤
はるちゃんが声を失うことになったのは何故なのか、
その原因を詳しく述べるには、
私の出生前まで話を遡らなければいけないらしい
というわけで私はその正確な理由を知らない
母いわく「生まれる前のことは知らなくていいことがほとんど」であって
「知っていても知らずにいても今に変わりはない」からだそうだ
若干3歳であったはるちゃんが突然声を発しなくなった時のことを、
だから私は詳しく知らない
ただわかっているのは、はるちゃんの声が出ないのは
病気のためではなくはるちゃんの心の問題のためであるということだ
精神的になにか大きな衝撃を受けると、
声が一時的に出せなくなることはまれにあるらしい
医者にはそのうち出るようになるだろう、
と言われていたらしいけれど
まだ「そのうち」はやってきていない
薬も飲んだし学校を休んだりいろんな病院にも行ったけれど
結局はるちゃんは、20歳になる今も声を出せないままだ


「はるちゃんの心の問題なのよ」
なにが原因なのか、声帯の病気なのか、これから声が出るようにはならないのか、
どんなに質問を重ねても母はいつも同じに、
「はるちゃんの心の問題なのよ」と答えるのだった
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by lilmickey | 2007-11-23 10:01 |
【頬】④
はるちゃんは私のいとこで、母の姉である志穂おばさんのひとり息子だ
まだ子供の頃に声を失い
それ以来はるちゃんは声を取り戻すことなく大学生になった
会話をするとき、はるちゃんは手話を使うけれど
私は手話があまりわからないので
はるちゃんの口の動きと表情で理解する
今まではるちゃんとのコミュニケーションを
無理だとか困難だとか思ったことはない
はるちゃんの顔を見れば何がいいたいのかわかったし
はるちゃんが笑うときはかかか、と
のどの奥でかわいた空気の音がするので
私も一緒に笑った
そのかかか、が私の聞ける唯一のはるちゃんの声なのだった
はるちゃんは自分が話せない代わりに
人の話をよく聞いてくれる


はるちゃんがうちの近くの難関大学に見事合格し
実家を離れて私の家に居候し始めてから2年になる
私ははるちゃんが来てくれてとても嬉しかったし
はるちゃんの方も家に帰れば私とルルがいて楽しい
と言っていたことがあった
はるちゃんはルルをとても愛している
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by lilmickey | 2007-11-22 22:50 |
【頬】③
そこまで考えたところでぷっつりとビジョンが途切れた
瞼を開けるとルルの目のぐるり、があって
その向こう側にははるちゃんの派手なトレーナーがあり
ルルを抱いたはるちゃんが私の顔を覗き込んでいるのだと気づいた
私は思わず「目!」と叫んだが
はるちゃんはぽかんとした顔のまま部屋を出て行った
とりあえず、「夢か」
とつぶやいてみてからカーテンを開け
空を見上げたが目らしきあの黒い物体は見当たらない
「なんだ夢か」


あれは誰の目だったのかと思う
何を見ている誰の目だったのか
テスト3日前だから勉強しろという暗示か
外は晴れているが相変わらず寒そうで
分厚く積もった雪は踏みしめるときっと
きしきし音を立てるんだろうなと思った
階下ではルルの小さな足音とボールの転がる音がして
はるちゃんがルルと遊んでいるんだな、と思う
はるちゃんの声はしない
なぜならはるちゃんには声がないからだ
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by lilmickey | 2007-11-22 18:20 |
【頬】②
それを見て私は
家で飼っている犬のルルを思い出した
ルルは体の小さな小型犬で、白と黒の毛色をしている
私がまだ小学生の頃に、知り合いのお宅で生まれたからときいてもらいにいった
血統書もないので犬種はわからないがたぶん雑種だ
今のぐるり、はルルの目にそっくりな動きだと思った
まさか、
と私は思った
まさかあれが、目なんてことはあるまい
しかし目と考えるにはずいぶん都合がいい
ふたつの黒い物体は常に一定の距離をおいて位置してるし
動きも一緒だ
あれを黒目だと
なにかの、なにかひどく巨大な生物の、
黒目だと考えるのが自然だろうなあと思い始めた
でも、なんで?
なんで空に目が?
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by lilmickey | 2007-11-21 23:44 |
【頬】①
朝目覚めてカーテンを開け
窓の外を見ると
空には太陽の代わりにブラックホールが浮かんでいた
びっくりして目をこすり
もう一度よく見てみても
やっぱりブラックホールがぽかんとあって
更にそれはひとつではなくふたつもあった
同じ高さに同じ大きさのそれらは
距離を一定に保ち
片方が左へ動けば
もう一方も同じだけ左へ動いた
よく見れば太陽はちゃんと存在していて
いつもと変わらず世界を照らしている
周りの風景も変わらないし
庭の木々も道路に積もった雪も
特におかしな様子はない
そのふたつのブラックホールを除いては
なにもかもいつも通りのように思えた
だから私はいつも通りに身支度をし
いつも通りに家を出て
いつも通りの道を歩き
いつも通りの時間に
いつも通りの学校へ着いた
他の人もいつも通りで
空に浮かんだ見慣れない黒い物体について
特別話題にのぼっている様子もない
けれど私にはどうしてもそれが見えたので
どうしたものかとちらちら空を見ていたら
どうかしたのか、と担任が言うので
はっとした時にはテスト時間はほぼ過ぎ去っていて
私の答案は白いままなのだった
残り時間でやっと数問解いてなげやりに提出し
空を睨みつけながら
ちぇっと口に出して言ったら
空の黒い物体がぐるりと動いた
ふたつとも同じ動きで
小さな円を描くように
ぐるり、と動いたのだ
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by lilmickey | 2007-11-21 20:55 |